伊藤積分と確率微分方程式
中級編まで決定論的動学で扱ってきましたが、実際の認知系はノイズと確率的揺らぎで満ちています。本章は確率積分(伊藤積分)と確率微分方程式の入口を設置し、T 理論の確率版への橋渡しを作ります。
決定論的動学からのギャップ
中級編で扱った動学:
$$ \dot{x}(t) = f(x(t), u(t)) $$
これは 滑らかで確定的な軌道を仮定しています。しかし認知系では:
- 注意配分は ランダムな揺らぎを持つ(注意の遊走)
- 外部刺激は ノイズとして到来する
- 内的状態(気分・覚醒度)は 確率的に変動する
これらを取り込むには、$\dot{x}$ に ノイズ項 $\sigma \, dW_t$ を加える必要があります。
Brownian motion(Wiener 過程)
確率動学の基本素材は Brownian motion $W_t$ です。次の性質を持つ確率過程:
- $W_0 = 0$
- 増分 $W_{t+s} - W_t \sim \mathcal{N}(0, s)$(平均 0、分散 $s$ の正規分布)
- 重ならない時間区間の増分は独立
- パスは連続だがどこも微分不可能
Brownian motion は 連続だがガタガタな軌道で、認知系での「ノイズの蓄積」を表現する最も自然な数学的素材です。
伊藤の確率微分方程式(SDE)
T 理論を確率版に拡張する基本道具が 確率微分方程式(SDE):
$$ dx_t = f(x_t, u_t)\, dt + \sigma(x_t, u_t)\, dW_t $$
意味:
- $f \, dt$ : 決定論的なドリフト項(中級編までと同じ)
- $\sigma \, dW_t$ : 拡散項(ノイズによる揺らぎ)
$\sigma$ は 拡散係数行列(ノイズの強さと方向)。
伊藤積分の必要性
普通の Riemann 積分 $\int_0^t g(s)\, dW_s$ は 定義できません($W_s$ は微分不可能)。代わりに 伊藤積分を使います。
伊藤積分の定義(直観):区間を細かく分割し、
$$ \int_0^t g(s)\, dW_s = \lim_{n \to \infty} \sum_{i=0}^{n-1} g(t_i)\big(W_{t_{i+1}} - W_{t_i}\big) $$
ここで $g(t_i)$ を区間の左端で取るのが伊藤積分の特徴です(右端や中点で取る Stratonovich 積分とは異なる結果になる)。
伊藤の補題
決定論的動学では連鎖律で $\frac{d}{dt}\Phi(x(t)) = \Phi'(x) \dot{x}$ でしたが、確率動学では 追加の項が出てきます。
$\Phi$ が $C^2$ 級なら:
$$ d\Phi(x_t) = \Phi'(x_t)\, dx_t + \frac{1}{2} \Phi''(x_t)\, \sigma^2(x_t)\, dt $$
第二項 $\frac{1}{2}\Phi'' \sigma^2 \, dt$ が伊藤の補題の特徴。これは 二次変分(quadratic variation)から来ます:Brownian motion は微分できないが、二乗の積分は有限値を持つ。
つまり Brownian motion の存在で、$\Phi$ の時間発展に追加の凸性補正が入ります。
SDE 版の Lyapunov 解析
Stochastic Lyapunov 関数を $\Phi(x_t)$ とすると、伊藤の補題から:
$$ d\Phi = \big[\Phi' f + \tfrac{1}{2}\Phi'' \sigma^2\big]\, dt + \Phi' \sigma\, dW_t $$
期待値の動学(確率項 $dW_t$ の期待は 0):
$$ \frac{d}{dt}\mathbb{E}[\Phi(x_t)] = \mathbb{E}\big[\Phi'(x_t) f(x_t) + \tfrac{1}{2}\Phi''(x_t) \sigma^2(x_t)\big] $$
これを 生成作用素 $\mathcal{L}\Phi := \Phi' f + \frac{1}{2}\Phi'' \sigma^2$ と書く。
確率版 B.1 補題
決定論的 B.1 補題の対応物:
生成作用素 $\mathcal{L}\Phi \le -\lambda \Phi$ なら、$\mathbb{E}[\Phi(x_t)] \le \Phi(x_0) e^{-\lambda t}$
ただし 個別経路では指数収束が保証されない — 期待値の収束のみ。これが決定論的版との決定的な違い。
つまり「平均すれば」TCZ に向かうが、ある日たまたま大きく外れる経路はあり得る。これが認知の不確実性の数理的記述です。
認知系での解釈
T 理論を SDE に拡張する含意:
| 項 | 認知系での意味 |
|---|---|
| ドリフト $f \, dt$ | 意図的な制御(意思決定)の効果 |
| 拡散 $\sigma \, dW_t$ | 制御不能な内的・外的揺らぎ |
| 二次変分項 $\frac{1}{2}\Phi'' \sigma^2$ | 揺らぎの累積による評価関数の歪み |
| 生成作用素 $\mathcal{L}\Phi$ | 期待値レベルでの動学 |
実用的含意:
- 計画通りいかなくても期待値レベルでは TCZ に向かう
- ただし 個別の日では大きく外れる可能性
- ノイズが大きい($\sigma$ 大)時は 決定論的予測が破綻
確率制御問題の再定式化
最適制御問題は SDE で次のように書けます:
$$ \pi^*(x) = \arg\min_{u(\cdot)} \mathbb{E}\left[ \int_0^T V(x_t, u_t)\, dt \;\Big|\; x_0 = x \right] $$
subject to $dx_t = f(x_t, u_t)\, dt + \sigma(x_t, u_t)\, dW_t$.
これは 確率最適制御(stochastic optimal control)の標準形式。次章で扱う Hamilton-Jacobi-Bellman(HJB)方程式で解きます。
拡散項 σ への介入は可能か
決定論的版でコーチング介入は ドリフト $f$ への介入(制御 $u$ で)でした。SDE 版では 拡散 $\sigma$ への介入も意味があるか?
- σ を下げる介入:ノイズを減らす(マインドフルネス・瞑想・環境整理)
- σ を上げる介入:多様性を増やす(探索・実験・創造性)
両者ともコーチング・介入工学の対象となり得ます。決定論的 T 理論では捉えられない次元です。
Stratonovich 積分との関係(完全情報)
伊藤積分以外に Stratonovich 積分(中点で評価)があり、これは物理学者好みの形式です。両者の関係:
$$ \int g \circ dW = \int g \, dW + \tfrac{1}{2}\int g' \sigma \, dt $$
(Stratonovich 左、伊藤右)
T 理論を確率版に拡張する時、どちらの解釈を採るかで定理の形が微妙に変わります。本書は伊藤を採用していますが、この選択自体が研究上の判断であり、読者によっては Stratonovich を支持するかもしれません。
厳密性のための前提
SDE 理論の厳密化には次が必要(完全情報):
- 可測空間 + フィルトレーション:時刻 $t$ までの情報の集合 $\mathcal{F}_t$
- 適合性:$x_t$ が $\mathcal{F}_t$ 可測(過去の情報のみで決まる)
- リプシッツ条件:$f, \sigma$ がリプシッツ連続(解の存在と一意性)
- 線形成長条件:$\|f\|, \|\sigma\| \le C(1 + \|x\|)$(爆発を防ぐ)
これらは Karatzas-Shreve "Brownian Motion and Stochastic Calculus" の標準前提。本書はスケッチで扱いますが、形式論文ではすべて確認が必要。
- 認知系は ドリフト + 拡散 の SDE で記述するのが自然
- 伊藤積分が確率積分の標準(Stratonovich は別流派)
- 伊藤の補題に 二次変分項 $\frac{1}{2}\Phi'' \sigma^2$ が追加
- 確率版 B.1:期待値レベルで指数収束(個別経路は保証されない)
- ノイズへの介入($\sigma$ への介入)は決定論版にない次元
本章は確率解析の入口です。本格的な学習には: - Karatzas & Shreve, "Brownian Motion and Stochastic Calculus" (1991) - Øksendal, "Stochastic Differential Equations" (2003) - Mao, "Stochastic Differential Equations and Applications" (2007) T 理論を確率版に 形式的に拡張する作業は、本書の射程を超える研究課題です。
確認
問:伊藤の補題で追加項 $\frac{1}{2}\Phi'' \sigma^2$ が出る理由を、「Brownian motion の性質」から説明してください。
解答を見る
Brownian motion の二次変分が有限だからです。
通常の滑らかな関数 $x(t)$ では $(dx)^2$ は微小($O(dt^2)$)で無視できます。Brownian motion では:
$$ (dW)^2 = dt $$
(平均的に)成立する。これは Brownian motion の分散 $\mathrm{Var}(W_{t+dt} - W_t) = dt$ から来る。
二次の項が無視できないため、Taylor 展開で:
$$ d\Phi = \Phi' dx + \tfrac{1}{2}\Phi'' (dx)^2 + \cdots $$
の二次項が 生き残る。これが伊藤の補題の追加項の起源。
直観的に:Brownian motion は 微分不可能だが、二乗すれば有限変動を持つ。この「中間的な滑らかさ」が確率動学の本質です。
確認
問:確率版 B.1 で「期待値レベルで指数収束」と言いました。個別経路で保証されない理由は何ですか?
解答を見る
$\Phi(x_t)$ は 確率変数 だからです。
期待値 $\mathbb{E}[\Phi(x_t)]$ は 多くの経路の平均で、これは指数収束する。しかし:
- ある特定の経路では、$\Phi$ が 一時的に増加することがある(ノイズが不利な方向に効く)
- ノイズが累積的に偏ると、長期的にも収束しない経路が 正の確率で存在しうる
T 理論的含意:個人の特定の人生 で TCZ への収束が保証されるわけではない。集団平均(または同じ条件で何度も繰り返した時の平均)で初めて保証される。
これは「運の存在を数理的に認める**」操作で、決定論的 T 理論にない自由度を与える反面、個別の人生に対して保証を弱める結果でもあります。
次章への接続
SDE が用意できたので、次章では確率最適制御を Hamilton-Jacobi-Bellman(HJB)方程式で解く道具を組み立てます。決定論版の動的計画法の確率拡張です。