多世界 W と可能世界
T 理論は「人は単一の現実ではなく、可能世界の集合の上で意思決定している」ことから始まります。この章ではその出発点 — 多世界 W の概念を組み立てます。
単一現実モデルの限界
普段、私たちは「いまここ」の単一現実を所与として行動しているように見えます。しかし、何らかの選択をする時、頭の中では 複数のシナリオが同時に評価されています。
- 朝、出る前に傘を持つかどうか — 雨が降る世界 / 降らない世界の両方を想定
- 転職するかしないか — 続ける世界 / 移る世界 / 別の道へ行く世界
- 連絡を返すか後回しにするか — 各シナリオの結果を瞬時に重みづけ
意思決定は 単一の状態 x ではなく、可能世界の集合 W に対して行われている、というのが T 理論の出発点です。
定義 1.1 — 多世界 W
T 理論では、認知の作動空間を次のように定義します。
$$ W = W_{\text{current}} \cup W_{\text{future}} $$
これは「現在の可能世界 + 到達可能な未来の可能世界の集合」を意味します。各世界 $w \in W$ は、その時点でとりうる状態の一つです。
「認知は単一の状態としてではなく、可能世界の集合 $W$ として表現されなければならない」(NDU 論文 §2.1)
順序付け関数 r
W の中の世界に対して、私たちは「こちらの方がマシ」「こちらの方が望ましい」という比較を絶えず行っています。これを形式化するのが順序付け関数 $r$ です。
$$ r : W \to W $$
この記法は一見「W から W への自己回帰関数」に見えますが、実際は 半順序関係を生成する演算子です。$r(x, y)$ は「x が y より快である」という関係を返します。
到達可能集合 R(t; x_0)
W のすべての世界に行けるわけではありません。ある初期状態 $x_0$ から時間 $t$ をかけて辿り着ける世界の集合を 到達可能集合 と呼びます。
$$ R(t; x_0) \subseteq W $$
これはロケットの姿勢制御で「初期状態からどの軌道に乗れるか」を計算するのと構造的に同じです。違いは 対象が物理空間ではなく認知空間であることだけです。
なぜ多世界拡張が重要か
通常の制御工学は 単一の現実 W₁ の上で最適制御を解きます。一方、T 理論は 多世界 W = ⋃ Wₖ の上で最適制御を解く。これにより、「いまここ」の不快を最小化するだけでなく、「将来の可能世界」を考慮した意思決定が形式化できます。
- W : 可能世界の集合(現在 + 未来)
- w ∈ W : 個々の可能世界
- r : W → W : 半順序を生成する順序付け関数
- R(t; x₀) ⊆ W : 初期状態 x₀ からの到達可能集合
確認
問:多世界 W は「過去 + 現在 + 未来」と書いていいでしょうか?
解答を見る
いいえ。T 理論で扱うのは 現在 + 未来 です(W = W_current ∪ W_future)。過去の世界はすでに「決まった軌道」として扱われ、意思決定の対象集合 W には含まれません。意思決定は「これから到達できる世界」に対して行うものなので、過去は所与の初期条件に圧縮されます。
確認
問:r : W → W という記法を見て「自分から自分に戻る関数」だと思いがちですが、実際は何の関数でしょうか?
解答を見る
順序付け関数(半順序を生成する演算子)です。同じ W の中の世界たちに「どちらが快か」のラベルを付けて回る道具で、自己回帰関数ではありません。型(W → W)が同じだからといって機能まで同じとは限らない、という良い例です。
次章への接続
多世界 W と順序付け関数 r が用意できると、その上に TCZ(Total Comfort Zone) を定義できます。次章では「到達可能 ∧ コンフォート」という二条件で TCZ を切り出し、定理1(個人の TCZ 収束)に接続します。